10月1日 礼拝のお知らせ
礼拝のおしらせ
こどもの礼拝(9:00-9:40)
主日礼拝(10:15-11:15)
・説教者:中井牧師
・説教題:「主の御旨を訊ねる祈り」
※新型コロナウィルス感染症への対応
・礼拝堂・会館などに出入りする際には手指消毒を徹底してください。
・マスク着用は個人判断でお願いします。
・体調の優れない方は出席をお控えください。
・讃美歌は小さな声で歌ってください。
・教会備付の聖書と讃美歌は使用しません。
・礼拝堂の換気をしています。
・会館2階でも礼拝中継を実施しています。
Youtube と Facebook で礼拝を配信しています。
—牧師コラム「麦嵐-bakuran-」—
1918年9月25日、内村鑑三は次のようなことを日記にしています。読みやすいように漢字をひらがなにし、一部は言い回しを変えています。「晴れ、台風のあとの平静である。よき秋の日よりであった。朝、市中に数人の友人を訪問した。その後さしたることを成さずして一日を送った。信仰者にとって最もよき日は多くのことを成したる日ではない。もっとも深く主イエスを信じたる日である。何を成さずともよいのである。主イエスを信じれば足りるのである。「信これ最大の行(ぎょう)」である。ゆえに何をも成さざる日、しかり何をも成すあたわざる日が多くの場合において信仰者にとり最もよき日である。主イエスを信ずるの快楽、ただ単に信ずるの快楽、信仰者は求めて多くこの快楽をとるべきである」、信仰すなわち快楽という気持ちを語る内村の言葉を得て、鷲羽山から海を眺めて同じ思いに浸りたいと感じてしまいました。キリスト教には特別な修行をして何者かに成るという発想がありません。むしろ、その発想そのものが愛の実践から遠ざかってしまった一部のファリサイ派の人々に通じていくものです。ただ信じること、それが最大の修行といってもよい、何もしない日に主を思うことが信仰者のもっとも快楽するところであり、そこにおいて確認される命の賜物が世の光、地の塩として湧出しはじめる運動を感じることが、新しいいのちを生きると表現される状態なのではないだろうかと考えています。信仰を得ている悦びとは、このような思索に耽られることでもあります。(中井記)