倉敷教会会堂の概要


倉敷教会会堂

建築年;大正12年(1923年)


設計者;西村伊作(当時39歳)

 

キリスト教禁制が明治6年(1873)に解かれると宣教活動が公然と行われるようになって岡山県にもキリスト教の布教が始まった。

岡山キリスト教会が明治13年(1880)に中国地方で初めて設立され、その後、高梁教会(高梁市;現存)、そして天城教会(倉敷市内;現存)ができるなど、県内に次々と教会ができた。

 

大日本帝国憲法の発布(明治22)で「宗教の自由を有す」と国民の宗教の自由が認められた。

岡山教会や天城教会に属していた倉敷町の教会員は、信教の自由が許されたことや地理的理由などで明治39年(1906)に「日本組合キリスト教会・倉敷教会」を設立し、25名の教会員の仮教会堂が大原孫三郎邸(現・国重要文化財の大原邸)のそばに建築された。

 

その後、会員が増加したことなどで会堂の新築移転をすることになり、当初ヴォーリズ設計事務所で設計までされたが変更し、西村建築事務所において設計され、大正12年(1923)に新「倉敷教会堂」が完成した。

 

西村伊作と教会員がどの様なことで交流ができ、新会堂の建築に関わったのか定かではない。

倉敷文化協会の招きで「文化生活の実行」という演題の講演を大正10年(1921)に行ったことが記録に残っている。

 

教会堂の入り口は、石畳の緩やかなスロープをのぼった二階屋上のバルコニーにあり、そこは誰もが自由に憩えて精神を開放する舞台でもあった。

二階の礼拝堂に直接入れ、当時にしては珍しい形態で、また一階には教会付属の「竹中幼稚園舎」があり、幼稚園併用の教会堂になっている。

 

一階部分と塔は、地元産出の北木島の花崗岩を使用し、自然な感じの石積みである。

その積まれた石は天然のままの色合いで、建物に落ち着いた安定感を与えている。

塔と急勾配の屋根、尖頂アーチ窓などを特徴としたインドのバンガロー形式の建物は、ここを利用する教会員、幼稚園児や町民の目に、当時どのように映ったことだろうか。

また教会堂は七十有余年の町のありさまを、これからも見守り続けることだろう。

 

建築家「西村伊作」の作品が、当時まだ田舎町であった”倉敷”に完成し現存している、その建築様式と歴史的な価値において貴重な建築物である。

建物の老朽化と時代の波を”保存”という言葉で防ぎ、今後も存続させて「倉敷教会会堂」を後世に残し、文化財としての位置づけを期待したい。

 

倉敷市『第一回建築文化賞』1993.受賞作品集より

西村伊作


異色の建築家 西村伊作

 

紀州材木の集散地の和歌山県新宮町は陸の孤島であったが、海に向かって開かれ、西洋文化の波が押し寄せる町であった。

新宮教会を建てるなど熱心なクリスチャンであった大石余平は、アブラハムの子の名前イサクをわが子の名とし、大石伊作は明治17年(1884)に世にでることとなった。

その後、濃尾大地震(1891)で両親を亡くし「吉野第一の山林地主」といわれた母方の西村家を継いだ『西村伊作』は、その西村家の資産がその後の活動を少なからずささえることとなる。

名家で教育家の家柄で育った父の余平は、西洋の生活様式と考えを取り入れていた。

このことが幼少であった伊作に大きく影響し、彼の生き方にもあらわれている。

 

西洋料理や建物等の絵画に興味を持ち洋服を着るなどハイカラな伊作は、新宮町での青年時代には、社会主義に傾注し叔父の大石誠之助らと大逆事件(1910)に関与していたこともあったが、その後は内外の一流の芸術家や知識人との幅広い交友関係を持つようになった。

伊作は、自分の理想の生活空間の中で、リベラルで家庭教育的な雰囲気において教育を行うべきと考えており、「未来の文化的生活を営む素養を与える」ことを目標として、大正10年(1921)に、文化意識をもった家庭の子女のための「文化学院」を与謝野鉄幹、晶子夫妻らとともに、東京都の神田駿河台に創設した。

教授陣には与謝野夫妻、洋画家の石井柏亭、音楽家の山田耕作などのスタッフをそろえ、伊作は長女のアヤ(二代目校長)を入学させた。

画家・竹久夢二、小説家・谷崎潤一郎、詩人・萩原朔太郎など、大正時代のそうそうたる芸術家、作家や文化人の子女の多くが「文化学院」に集まっていた。

この校舎は英国の農家風で、静かな田園の中に建つ住宅のイメージであり伊作が設計した。 伊作はこの時37歳であった。

 

小さいときから建築に興味を抱き続けていた伊作は、21歳(明治38)の時はじめての設計でツーバイフォーの小さなバンガロー形式の自宅を新宮に建てているが、大正4年(1915)には本格的な純木造洋館(現・西村記念館)の住宅を建築した。

神田駿河台の文化学院に転居するまでの10年近くをここで生活し、ここのサロンには同町の作家の佐藤春夫など多くの知識人や芸術家が集まっていた。

当時、この「新宮の家」を著書『楽しき住家』に紹介したり、学院内で再刊(大正10)された第二次「明星」に『家』のことを連載したり、伊作は様々な執筆活動を行っている。

このことで建築家として注目をあびるようになり建築設計の依頼をうけるようになった。

 

大正10年の文化学院の開校とあわせて西村建築事務所を学院内と兵庫県御影(現・東灘区)に開設し、その彼が設計した建物の中で、「倉敷教会会堂」(大正12)と「若竹の園」(大正14)が倉敷市内に現存し、今も使用されている。

建物の根本は人間の住家であり、生活の理想なくして設計することは無意味であるとの信念のもとに、住宅については心の安定と心の開放の場で「快適であること」を大切にし、また人間の精神的な表現を取り入れての設計をした。

生涯独学で建築を学び、自らを『素人建築家』と呼ぶ伊作であった。

 

大正という一時代の中の文化学院は、教育史的には自由教育の一つであったが、芸術家、知識人がとりまくなかにユートピアとしての自由な創造的空間をもち、それはこの時代の雰囲気そのものであったといえる。

 

建築史、教育史そして文化史にも名をとどめる『西村伊作』は、大正が残した「異色の建築家」であった。

 

* 参考文献 加藤百合著『大正の夢の設計家―西村伊作と文化学院』 倉敷市『第一回建築文化賞』1993.受賞作品集より

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倉敷教会史跡めぐりマップ (画像は印刷してご利用いただけます)


 ① 禁酒倉跡地


林源十郎(Ⅰ)が酒やタバコを節制したつもりで貯めたお金を献金し、会堂建築後の1923~1924年に会堂の北西角に建てられました。

「花の日」の花瓶などを収めていたが、キリスト会館建設(1970.9.11)のため解体されました。

 

② 蘇翁竹中記念館(通称;竹中会館)


竹中幼稚園創立45周年事業として1967.10.01竣工。

竹中みつ園長旧宅の処分金約1,000万円を基に、会堂の隣接地に園長の居宅(二階建て)として建設。

旧宅はもともと林源十郎翁が竹中みつ園長に差し上げた土地建物であり、みつ園長の意向、翁の幼名蘇太郎の一字を冠し名付けられました。

 

③ 牧師館跡地

 

④ 青年会館跡地

会堂の付属建物として1923.05.20(大正12)田崎健作牧師の就任と時を同じくして牧師館を建築。

青年会館は牧師館より7年後の1930年(昭和5)に創立25周年記念事業として、また青年会活動の拠点として建てられました。

青年会はかねてより資金1万円を募り、会堂前に西村伊作設計による建坪58坪のモダンな木造洋館を建設しました。

一教会の青年会が会館を建てるということは我が国において初めてで、おそらく唯一のものだったでしょう。

キリスト会館建設(1970.09.11)のために売却されました。

なお、この土地は先代林源十郎が退職後堂守をと考えて取得したもので、後日教会に寄贈されました。

 

⑤ 教会墓地(鶴形山)


教会墓地は鶴形山裏登山口より少し登った左側にあり、川越靖雄(最初の定住伝道師・川越義雄の次男)等の墓石があります。

また、早島にも創立75周年事業として1979.12に早島墓地公園内の6区画を取得しました。

後に竹中幼稚園より1区画寄贈され、合計7区画27.5坪となっています。

早島に教会墓地を取得したことにより、鶴形山の教会墓地にあった竹中悦蔵、杉田譲二両牧師の墓石は同敷地内に移転しました。

1983.07に教会創立77周年記念聖日、納骨堂が完成しました。

 

⑦ 鶴形山の祈りの石


祈りの石とは、倉敷教会創立者の一人である浅野義八翁が40数年、数名の人たちと一緒に祈ったところにあった石のことです。

その石のあった「祈りの場所」は、当時の倉敷町の中心にある鶴形山山頂近く、阿智神社の背後を少し下がった樹間にありました。

現在、この石のあった付近は「阿智の藤」として藤棚が整備されています。

 

⑫ 日曜学校開校跡地


1904年(明治37)5月8日、尾野田伊之吉氏によって本町の坂部医院(現・ギャラリーたけのこ村)の裏の離れ座敷で最初の日曜学校が始められました。

 

⑯ 幼稚園開園の


1922年(大正11)9月1日、竹中悦蔵牧師、杉田譲二牧師の死を記念して、新川の仮会堂(現・亀遊亭;記念碑あり)に竹中みつ先生(竹中牧師夫人であり杉田牧師妹)によって設立されました。

最初は旭幼稚園と称し、園児15名、教師3名でした。

翌年3月19日に現会堂建築に伴い、会堂一階に移転し竹中幼稚園と改称しました。

多くの外国製の幼児教材が揃えられ、開園より現在に至るまで教師と子どもたちとの人格的なふれあいの中で「キリスト教を信仰の土台とする人格形成」を目指す教育がなされています。

 

⑳ 平和教会跡地


1927年(昭和2)救世軍倉敷小隊として中国連隊長一柳少佐他2名により伝道が開始されました。

1941年日本基督教団設立に伴い倉敷平和教会と改称し、阿智一丁目の林源十郎別邸(現フコク生命ビル隣地の倉庫)を基盤として、初代小沼邁牧師により伝道されました(当時の会員は約20名)。

1955年渡辺永一兄より船倉の自宅(現・清水宏氏宅)が捧げられて移転。

1977年より無牧となり、1981年信徒22名全員が倉敷教会に転会する形で解散。会堂は「倉敷友の会」に譲渡されました。