3月20日 礼拝のお知らせ
礼拝のおしらせ
こどもの礼拝(9:00-9:40)
主日礼拝(10:15-11:45)
・説教者:中井牧師
・説教題:「自分を捨て、自分を得る」
※新型コロナウィルス感染症への対応
・礼拝へのご出席はマスクの着用をお願いします。
・体調の優れない方は出席をお控えください。
・讃美歌は奏楽を聴くのみで歌詞を味わい黙想して下さい。
・教会備え付けの聖書、讃美歌は使用しません。
・礼拝堂の換気をしています。
・礼拝堂の人数制限(80人)を行っており、上限を超えるときには礼拝中継を実施しているキリスト会館へとご案内しています。ご了承ください。
Youtube と Facebook で礼拝を配信しています。
—牧師コラム「麦嵐-bakuran-」—
遠くへ行くことなんて望んでもいないのに、国境を越えて逃げなければならない。住み慣れた場所から無理矢理引き剥がされることの苦しさは言葉にできないものです。このウクライナの市民が味わう悲しみは、彼らだけのものではありません。11年前の日本のあちこちでも同じ痛みを味わいました。東日本大震災で発生した津波に故郷を流される出来事、原発事故で人間が住めない地域が生じたこと。まさか二度とは戻れなくなるとは思わないで避難した人が多くおられました。故郷の喪失に痛みをもつのはキリスト教徒も同じかもしれません。古代教父アレクサンドリアのクレメンスは、キリスト教徒は、この世界において束の間「異国に滞在する者」であるという認識をもちました。キリスト教徒は、市民であると同時に異国人であり、地に根を張ると同時に巡礼者であるという認識でした。日常生活の枠の中で前進し続ける神の民であり、約束の地へと歩みを止めない旅人でした。旅の途上において、喪失を惜しむほどの友、時間、景色の出会いの数々を刻むときに、その人自身の命の意味が示されていきます。悲しみと痛みに覆われた人間の世界において、にもかかわらず、その人でなければ奏でることのできない人生という音楽がある。クレメンスは「キリスト教徒の全生涯は長い祝祭の一日である」とも語っています。(中井記)