9月24日 礼拝のお知らせ
礼拝のおしらせ
こどもの礼拝(9:00-9:40)
主日礼拝(10:15-11:15)
・説教者:中井牧師
・説教題:「愛という律法」
※新型コロナウィルス感染症への対応
・礼拝堂・会館などに出入りする際には手指消毒を徹底してください。
・マスク着用は個人判断でお願いします。
・体調の優れない方は出席をお控えください。
・讃美歌は小さな声で歌ってください。
・教会備付の聖書と讃美歌は使用しません。
・礼拝堂の換気をしています。
・会館2階でも礼拝中継を実施しています。
Youtube と Facebook で礼拝を配信しています。
—牧師コラム「麦嵐-bakuran-」—
非母語話者が文筆を行うことを「exophony エクソフォニー」と表現します。Exit(外へ向かうところ)と Phone (音、声)が組み合わされた合成語で「外へ出る声」ということになり、母語以外の言語で書く現象を指す用語としてアカデミーで成立している言葉です。林明奎先生は韓国ソウル郊外に生まれ育ち、信仰を得て日本のキリスト教宣教のために生涯を掛けようと決意した宣教者です。常日頃から私は林明奎先生が日本語で文章を書き、メッセージされる有り様について驚きと感嘆をもっており、とても尊敬しています。彼の母語は韓国語です。私たちの経験からもわかるように母語というものは「説明をしなくても汲み取れる内容が大変多い言葉」であり、「微細な変化についても意識せずとも対応できる言葉」として優れています。日本語話者であれば「大きな本は小さなカバンに・・・」と言われれば「はいりません」と言えますが、非日本語話者にとっては「はいれません」と間違える割合が7割ほどおられるそうです。「はいりません」と「はいれません」の区別が大変難しい、「入る」は自動詞だから可能形には出来ない、ただし主語が「人」のように「意志」を持つならば可能形にできる、一方で「無意志」ならば原則どおり。つまり主語の意志性によって「入る」の可能形の適用に変化があるというのです。非母語話者は、日本語のニュアンスを徹底して分析して理解するという作業を経なければ、この変化を活用することが難しいのですが、母語話者は感覚と経験とによって無意識に活用しているのです。一方で、非母語話者であるからこそ、母語話者には発想できないような表現が創造されることがあります。それは一般的には言い間違いとして認識されることもありますが、意志的に創造する「作家」もおられるはずです。どうしてそのような表現をされるのかを、非母語話者に尋ねてみると、母語話者には想像も出来なかったようなプロセスを経て生み出された言葉であるかもしれません。少なくともエクソフォニックスピーカーである林明奎先生とご一緒しての宣教活動をとおして、私も、キリスト教宣教における日本語の可能性が拡張されることを期待し楽しく過ごしていきたいと思っています。(中井記)