5月21日 礼拝のお知らせ
礼拝のおしらせ
こどもの礼拝(9:00-9:40)
主日礼拝(10:15-11:15)
・説教者:林副牧師
・説教題:「主はいつも共におられる」
※新型コロナウィルス感染症への対応
・礼拝堂・会館などに出入りする際には手指消毒を徹底してください。
・礼拝出席はマスクの着用をお願いします。
・体調の優れない方は出席をお控えください。
・讃美歌は小さな声で歌ってください。
・教会備付の聖書と讃美歌は使用しません。
・礼拝堂の換気をしています。
・礼拝堂の人数制限(80人)を行っており、上限を超えるときには礼拝中継を実施しているキリスト会館2階へとご案内しています。ご了承ください。
Youtube と Facebook で礼拝を配信しています。
—牧師コラム「麦嵐-bakuran-」—
学生時代には精神科クリニックスタッフのアルバイトをしていました。院長の上野光歩先生は、かつて今治教会の主任牧師であった上野光隆先生のご子息にあたります。精神医療の専門家でもない学生の私に与えられた仕事は「何もしない」ということでした。もちろん、この表現は比喩であって、具体的にはクリニックに設置された登録制のデイケアで「あらゆること」をする仕事でした。デイケアにはご年配から同世代の青年まで毎日40名程度のメンバーが来られます。彼らが暮らす日々の中で生じるあらゆる出来事の一部分と関わり続けるというのが仕事でした。仕事が上手くいかない、付き合っていた人と別れた、家族との深刻な断絶を経験している、躁状態のときにつくった借金で悩んでいる、幻聴や幻覚のこと、病気とは、人間とは、生きるとは、どうして私は苦しまなければならないのか、いろんな話題を「一緒に暮らす」なかで共有していくのです。上野先生からは「患者さんがすべて教えてくれる。あなたは彼らの半歩後ろを歩きなさい」と教えられました。人を引っ張るでもなく、人と並ぶでもなく、人の半歩うしろに立ち、その人自身が「その人らしく」歩こうとすることへの援助ということです。援助を求める人からは冷淡に見えるかもしれません。分かるように支えないのですから。しかし、たとえケアされる側だとしても人生の主人公はその人自身である、ということへの敬意をもつならば、何も口出ししない、ただまなざしを注ぎ続け、つまづいたり倒れそうになる時に支えとして動く。あるいは倒れて傷ついた時に、いつまでも側にいる人になる。京都での学びは、私にとっては「一人の人の尊厳をどこまでも尊重する」という姿勢を教わる原点となっています。(中井記)